代表ストーリー

みなさんこんにちは!株式会社クロスハンド代表、クロメガネこと黒田雄介です。
現役のロックダンサーとして、踊ったり教えたりするほか、スタジオ運営やダンスイベントの企画、ダンサーのための学習塾運営、大会の審査員、専門学校の非常勤講師、企業や自治体とのコラボ立案など、ダンスにまつわる幅広い活動をしています。

大学を卒業するときには、ダンスを仕事にするなんて1%も考えていなかった僕が、こんなにもどっぷりダンス業界で仕事をするようになった経緯をまとめることにしました。
長くなると思いますが、お付き合いいただけると嬉しいです!

ダンスとの出会い

僕がダンスを始めたのは、大学1年生のとき。
きっかけは、在籍する大学の学園祭で、幼なじみが所属するダンスサークルのステージを見に行ったことでした。
舞台上で照明を浴びながら爆音と一体になって踊っている姿がめちゃめちゃかっこよくて……衝撃を受けたんです。
僕は目立ちたがりなので、みんなにキャーキャー言われているのも羨ましくて(笑)、あんなふうに踊れたらいいな、あのステージに立ちたいな、と思いました。

それからというもの、ダンス漬けの日々でした。
近所のスタジオで、世界的なダンサーHilty&BoschのZINさんに習うことができた幸運も重なりました。たまたまですよ、ラッキーすぎますよね。
僕は毎日9時間練習をするほど、ダンスにハマっていきました。

そんな学生時代でしたが、大学生活が終わりに近づくと、僕は「フツーの」就職活動を始めました。
世界的に評価されているダンサーでさえ、ダンスで生計を立てるのは簡単ではなさそうだ、と感じていたからです。だったら大企業で仕事を頑張って金持ちになって、ダンスは趣味にしておこうかな、と考えたんです。
人と話したり提案したりすることが得意だったので、「大きいものを売りたい」と思い、住友林業株式会社に内定をもらいました。学生のうちに宅建の資格も取っておこうと、2カ月間、1日14時間勉強して合格。

明るい社会人生活が待っているはずでしたが、卒業が近づくにつれ、「もっとダンスをやりたい」というモヤモヤが湧いてきました。住宅会社は基本的には土日が仕事。全国転勤の可能性もあるので、趣味としてでもダンスを続けられるかという不安を感じるようになってきたのです。

そんな気持ちで迎えた卒業式で大事件が起こりました。
スーツに身を包んで卒業式会場に向かうと……自分の名前が卒業生名簿になかったのです。学生課に問い合わせると、なんと「君、2単位足りないよ」と告げられました。
卒業式の当日に、留年が発覚したのです。そんなことある?何で事前に言ってくれへんかったん?と大変なショックを受けた次の瞬間、「これでダンスがもう1年できる!」という思いが頭をよぎっていました。

結果的に、留年した1年間で、ダンスバトルなどの大会で次々と成績を出すことになったので、人生は分からないものです。
ますますダンスを趣味と割り切るのが難しくなったのですが、留年が決まって1カ月でサントリーの関連会社に内定をもらっていたこともあり、卒業後は再び就職する道を選びました。

ダンスを仕事に

企業で働きながら、ダンスは趣味として続けようと考えていたのですが、就職した会社は忙しすぎて練習時間の確保が難しい環境でした。
もっと踊りたいという思いが積もり、ダンスにより多くの時間を割けるように残業の少なそうな公務員に転職しよう、と決意するに至ります。
今なら自分の性格は公務員に向かないと分かるのですが……当時は分からなかったんですよね。出身大学のある堺市の公務員試験を受けることにしました。
筆記試験には合格したものの、面接で「堺市をダンスの街にしませんか?」と提案し、不採用。時代が早かったのでしょうか(笑)。

タイミングってあるんですね。ちょうどその頃、僕のダンスの師匠であるZINさんがドイツに旅立つことになり、インストラクターの仕事を引き継がないかと声がかかりました。結果的に、公務員試験に落ちたことが「ダンスを仕事にする」初めの一歩となったのです。

インストラクターの仕事を引き継いだとはいえ、生徒さんはZINさんに習いたかった人ばかり。生徒ゼロからのスタートで、レッスン時間に自分ひとりで踊っていたこともありました。でも、少しずつ生徒の数が増え、レッスンの数が増え、一時期は週に17本ものレッスンを担当するように。
「生徒としっかり向き合っているね」とよく言われましたが、僕は特別なことをしていたつもりはありません。
もともと話すこと、教えることが好きで、ダンスを通じて僕自身もその時間を楽しんでいただけです。純粋に人と関わるのが好きで、人の心に踏み込むのが得意だという僕の資質が、インストラクターという仕事にハマったのでしょうね。

ダンス業界に目が向いて

インストラクターをして分かったこと。それはダンスで食べていくには、ただレッスンを受け持つだけでは限界がある、ということでした。

そこで、僕はレッスンを徐々に減らしながら、次のステップへと進むことを決めました。

レッスンを受けていた子どもたちが、「塾に行きはじめるから」という理由で辞めていくことが多かったので、「勉強も教えられるスタジオを作ろう」と考えたのです。

ちょうどその頃、同様の構想で立ち上げようとしていた「若者のためのストリートダンス複合施設」グラフィー住之江の責任者になってほしいという依頼が舞い込みました。

ここでなら自分のやりたいことを叶えられると感じ、運営会社に就職。立ち上げの業務に奔走しました。やっとオープンにたどり着いた直後……コロナウイルスが世界を襲い、緊急事態宣言が発令されたのです。

ダンスホールもスタジオも営業できない状態になったとき、僕はグラフィーの経営面と同時に、踊りたくても踊れない、ダンサーたちのことが気がかりでした。

この状況下で何ができるか―困っているダンサーたちにも、そしてグラフィーにもプラスになることを模索しました。

そして高校ダンス部に向けてホールを無料開放したり、インスタライブで無料レッスンを提供したりと、さまざまな試みを行いました。

ダンサーたちは喜んでくれましたし、グラフィーのインスタフォロワーは2カ月で1000人を超え、のちの集客の基盤を築きました。

コロナ禍で活動が制限されたダンサーたちを見て、「自分ならもっとこうするのに」ともどかしく感じることもありました。自分だけでなく、ダンス業界が盛り上がるために何ができるだろう、と業界全体に目が向くようになっていったのです。

しかし、スタジオとホールの管理には時間を要したため、僕がやりたかったダンスと教育をミックスできる場の創造になかなか着手することができませんでした。

そのため、自分が本当にやりたいことをやるために、再びフリーの立場に戻る決断をしました。

グラフィー住之江での経験を通じて、僕はダンサーとしてだけでなく、イベント企画運営や会場サイドの視点も持てるようになっていました。

巻き戻しには意味がない

2021年4月、フリーに戻って4カ月後、レッスンを委託されていたスタジオの発表会で踊っている最中に、僕は足の靭帯を断裂してしまいました。舞台セットから大きく飛び降りすぎ、足の甲の骨が粉々になってしまうほどの大けがでした。

踊ることができない、回復の見込みも立たない……ダンスの仕事がゼロになり、傍から見れば、「どん底」に見えたことでしょう。

でもこの状況を、僕はチャンスだと思いました。

以前から考えていたスタジオと会社設立の夢を実現することに決めたのです。やりたいと思いながら、それまでは日常の仕事に追われて取り組めていなかったことです。

ケガから2カ月後 2021年6月9日(ロックの日)に合わせて会社を設立。手術を2日後に控えていたので、会社をつくって、その足で入院、という感じでした。

そして同年9月には続いてダンススタジオをオープンしました。

一見よくないように見える状況を、後から振り返ると「あの状況になったおかげで」と胸を張れるようにしたい、という気持ちが僕にはあります。

思えば他にもそのような状況がありました。

留年したからこそ、ダンスで成績を出せた。

公務員試験で「堺市をダンスの街にしませんか?」と提案して落ちた経験があるからこそ、今高石市と「ダンスの街にする」取り組みを行えている。

結局住宅メーカーに就職しなかったけれど、宅建の資格を取得していたから、ひょんな出会いから不動産売買の副業をするようになった……。

予定外のことが起こったら、巻き戻すのではなく、のちに別のかたちで回収する―それが僕のやり方です。

留年が発覚したとき、住友林業からは、1年遅れても採用したいという言葉をもらいました。でも、僕はそれを断りました、もともと就職する予定のところに就職するのだったら、それは時間を巻き戻すこと。1年間棒に振っただけになってしまう、と感じたからです。

何かよくなさそうに見えることが起こっても、それは伏線に過ぎなくて、長い人生のなかで回収していけると考えるとワクワクしませんか?

心から笑顔になることだけを

僕の価値観のいちばん土台にあるのは「笑顔であること」です。

逆に言うと、どんなに褒められても、自分がワクワクすることじゃないと、やる意味あんの?と思ってしまいます。
おもろそう!と感じると、考えるよりまず体が動いて、実現してきました。妻には「風船のように飛んでいくね」なんて言われます。次から次へと自在に動いて、やりたいことを見つけてくる、というように見えるようです。

気が付けば、たくさんのイベントを立ち上げたり、いろんな方々と協業したりして、幅広いことを手掛けるようになっていました。
現役のダンサーの立場で、ダンスの魅力を凝縮して新たな場を作り、多くの人を元気にしていく―それが僕の使命だと感じるようになってきました。

例えば、ダンスって若者のイメージがありますよね?でも、以前スポーツジムで60歳くらいの方たちに教えたら、「毎週この曜日が楽しみ」って言ってくれたんです。
ダンスは全世代の人たちに楽しんでもらえると確信して、エクササイズフィットネスのひとつとして、健康ダンスプログラムを開発しました。
これまでダンスとの接点が薄かったところに「ダンスってこんなにおもろいんです!」ってアプローチするのはやりがいがあるし、僕だからこそできることだと思います。

僕は全人類ダンスをやったらいいのに、って本気で思っています。大人になって、運動したい、楽しみがほしい……そんなふうに言う人は、みんなダンスをやったらいいんです。

そのために、大人たちが「今更ダンスなんて」とか「リズム感ないし」とか、できない理由として挙げるものをひとつずつ潰していきたいんですよね。ダンスのハードルを下げて、大人になってもずっとダンスができる環境をつくりたいと思っています。

全世代をつなげ、ダンスを生涯楽しめるものにすること-それが僕の、今の大きな目標です。